南郷さんとしげる(13)の小話です。
*豆腐屋の、どこか間の抜けたラッパの音で目が覚めた。
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あっ、と思った時には遅かった。
貰い物だったか、自分で購入したのかも忘れてしまった、そんな茶碗だったが―――
それでも長年使ってきたものだけに、こうなってみると今更思い出したように愛着が沸いてきた。
「それ…南郷さんのお気に入りだったのにね」
さっきの音で目が覚めたのだろう、窓際に丸くなっていたアカギがいつの間にか傍に来ていた。
起こしちまって悪かったな、と詫びながらサッサと破片を片付ける。
「いや、まあ、なんとなく使ってた茶碗だけど…割っちまったもんはしょうがねえな」
男の独り所帯で元から食器も少なく、特に器に拘りもないが―――それでも茶碗がないのは困ると思う。
どこかに代えになるようなものを仕舞いこんでいなかったか…とぼんやり思案していると、ねえ、と裾を引かれた。
「茶碗、買いに行こうよ」
「…え、これからか?」
アカギのほうから外へ行こうと誘ってくることは珍しい。
「寝るのも飽きたし…南郷さんと昼間から一緒にぶらつくこともあまりないだろ」
そういわれてみれば、たしかにまだ日暮れまで時間もあるし陽気もいい。
こんな日曜の午後にアカギと一緒に歩くのも楽しいだろう。
そう考えると、割れた茶碗の重さと同じ程度に沈んでいた心が浮き立った。
「…なんか、首が痛い」
残暑の残る往来を2人並んでひたひた歩く。
アカギはしきりに首をさすって、昼寝なんかしなきゃよかったと肩を回している。
「ふはは、おまえほっぺたに畳のあとついてるぞ」
まだいくらか丸みの残る頬を覗き込んで笑う俺を不機嫌そうに無視して、
アカギは手の甲で何度か頬をさすると、諦めたように溜息をついた。
「南郷さんちは、やたら眠くなって…困るよ」
「気がつくと、だいたいお前寝てるもんな。夜フラフラ出歩いてるから昼間眠くなるんだ」
「南郷さんだって俺が来た時、高イビキで寝てたくせに」
互いに悪態をつきながら、小さく笑う。
こんな穏やかな休日もいいなあと、アカギの白い頭を見下ろす。
…そうだ、どうせ茶碗を新調するなら、コイツのも一緒に買おう。
その考えはとても良いものに思えた。
今までアカギに飯を盛る時、自分ではほとんど使うことのない丼を出していた。
それは普段使いの茶碗にするには少々大きすぎ、案の定アカギは「こんなに食えない」と、
手に抱えた丼を持て余しては、結局食べきれないぶんを俺に寄越してきた。
そもそも育ち盛りなんだし、多少大きくてもよかろうと別段気にせずに出してきたが。
ぶらぶら寄り道しながら歩いたため、目当ての店に着く頃には少し陽も傾き、いつの間にか虫も鳴きだしていた。
狭い骨董屋の店の軒先にはこぼれるように雑多な食器が積んであり、こうして見てるとついあれもこれもと欲しくなる。
「…南郷さん、決まった?」
最初こそ物珍しそうにうろうろと物色していたアカギはもう飽きたのか、軒先にしゃがみこみ何かいじっている。
見ると、二束三文で纏め売りに出されているような、所々欠けた小さな箸置きをぽつぽつと色違いに並べていた。
時折ひょいと顔を出す意外なアカギの幼さに、面食らいながらも笑みがこぼれる。
「なあ、アカギ、おまえどれがいい?」
左右の手に適当な茶碗を持ち、アカギに見えるように掲げた。
アカギはふと顔をあげて俺の手の茶碗を一瞥すると、あきれたように溜息をつき視線を足元に戻した。
「…そんな、悩むようなもんじゃないでしょ…うだうだと、女じゃあるまいし」
「俺のはもう決めたよ!おまえのだよ、おまえの!」
生意気な物言いに憤慨して、ムキになって言い返す。と、アカギが表情をなくしてゆっくりとこちらを見た。
その瞳にギョッとして、思わず視線をそらしてしまった。
子供と目が合った時、先に目をそらすのは決まって大人なんだってよ、と会社の誰かが言ってたのを思い出した。
しかし、今のはそういうのとは違う気がする。
もっと、なんというか。
気付くと、アカギが俺の手から茶碗を抜き取って棚に戻していた。
「…な、なんだ…他のがいいか?どんなのがいい?」
俺は自分を取り繕うように、なるべく明るくアカギに向く。
アカギは小さくかぶりを振ると「いらない」と言った。
「えっ…?」
「…だから、俺の茶碗はいらない。…いいよ、わざわざ買うこたない」
聞こえなかったのか、とでもいうように、アカギは俺の目を見てはっきりと「いらない」と繰り返す。
そのあまりに強い拒絶に俺は戸惑うしかない。
背を向け、また箸置きをいじりだしたアカギに何も言えず、結局、自分用の茶碗だけ買って店を出た。
最初のうきうきとした気分はすっかりしぼんでしまい、俺は肩を落として歩く。
アカギはそんな俺をどう思っているのか、何も言わずに少し先を歩いている。
それほど離れているわけでもないのに、足元の小石を蹴りながらゆらゆら歩くその背中が、とても遠く見えた。
『いらない』
それは、いろんなものに通じているような気がした。
「…いらない、か」
つと口をついて出た自分の言葉に、自分で凹んでしまい自嘲する。
自惚れていたのかもしれない。
余計な世話だったのかもしれない。
顔をあげて大きく息をつくと、先を歩いていたアカギが立ち止まって俺を見ていた。
…さっきのような真っ暗な瞳ではない。そのことに俺はひそかにホッと胸を撫で下ろす。
「南郷さん」
「あれ、なんだっけ…あの緑の、変なビンに入ったやつ飲もうよ」
急に振られた話題についていけない。
アカギが指をさすほうを見ると、氷屋の軒先のタライに冷やされているラムネが目についた。
「あ、あぁラムネか…」
こないだ銭湯の帰りに飲んだのを覚えていたらしい。
気に入っていたのか。
―――――緑の、変なビン。
アカギぐらいの歳なら駄菓子やラムネに馴染みがありそうなものなのに、
コイツにはそういうものに対する子供らしい執着や知識がすっぽり欠けている。
それはあっさり納得できてしまう反面、なんともいえない寂しい気分にさせた。
だから、アカギのほうからそういうものを欲しがるのは至極珍しいことだ。
さっきの拒絶に少なからずショックを受けていた俺は、そんなアカギのひとことに救われたような気持ちになる。
「茶碗なんかより、こっちのほうがいいよ…」
びい玉だって入ってる、とわけのわからないことを言うアカギに、思わず笑ってしまった。
「ばか、瓶は店に返すんだぞ。こないだ教えたじゃねえか」
「あぁ、返すといくらか貰えるってやつ?…でも、返すって決まってるわけじゃないんでしょ?」
だったらびい玉のほうがいい、と言ってタライから取り出した瓶を、目の高さにまで持ち上げて覗き込む。
そのアカギの表情は沈みかけた陽に溶けて、伺うことはできない。
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豆腐屋の、どこか間の抜けたラッパの音で目が覚めた。
いつからか、いつも決まって日曜のこの時間になるとやってくるようになった豆腐屋。
あいつがここに来ていた頃はあんなのなかったっけな…と、午睡からまだ覚めきらないままぼんやりと思う。
ひとりぶんの夕食を作るのも億劫に感じ、適当に外で食べようとサンダルをつっかける。
―――このあたりもだいぶ変わった。
ゆっくり煙草を吸いながら、夕暮れの道を歩く。
駄菓子屋の前にたむろした子供らが手にしているラムネの瓶に目が留まり、白髪の小さな丸い頭を思い出す。
今頃どこでどうしているのか。
なんの前触れもなく、アカギはふっつりと姿を見せなくなってしまった。
あちこち探したものの、まるで最初からいなかったかのように髪の毛一筋残さず消えてしまった。
同じようにアカギを探して、その筋の人間がうちにやってきたことも一度や二度ではない。
安岡さんなら仕事柄なにか知ってるかもしれないと何度か連絡をとってみたが、やっぱりアカギの消息は掴めていないようで、逆に「あんたのほうが知ってそうなもんだが」とチクリとやられ、さすがにその時は憤慨した。
「まあ、一応、注意はしてみてるんですがね―――あの小僧は目立つナリだったから、どこかで…」
どこかで死体があがればすぐにわかりそうなもんだから。
安岡さんの暗い物言いに絶句し、しばらく放心した。
そんな、死んでるかもしれないなんて思いもしなかった。いや、うっすらとその可能性を認識しつつも、考えないようにしていたのだ。
しかし改めて他人に、しかも警察に属する人間にはっきり言葉にして言われると、もうだめだった。
今でも鉛のように重く、それが俺の中にわだかまっている。
命の恩人といえば聞こえはいいが、俺があいつを引っ張り込んだのだ。
13だった。
とんでもないやつだったが、まだ13の子供だった。
無事でいてほしい。
生きていてほしい。
アカギならきっと…と思いながらも、あの未熟な薄い肩を思い出すと、やはり暗い思いが鎌首をもたげる。堂々巡りだ。
そして結論もないまま、あっという間に3年経ってしまった。
―――――いらない
ふいに、アカギの声が聞こえた気がした。
ハッとして顔をあげると、あの骨董屋の暗い軒先に突っ立っていた。
…ああ、いつの間にかこんなところまで歩いてきたのか。
なんとなくバツの悪さを感じ額を撫で、せっかくだと思い軒先に出されている器を物色する。
3年前に来た時と特に代わり映えもない、さびれた品揃えだ。
店の中に入ってもその風景は変わらず、よく潰れないで残ってたな…と失礼なことを考える。
ふと棚の隅、小さな籠にバラバラと入れられている箸置きが目に入った。
値札もついていないそれらは、かといって処分するには惜しいらしく、未練たらしく中途半端な場所に埋もれている。
それはあの日、軒先に出されていた売り物ともいえないような―――欠けた箸置き。
咄嗟に、暗い店の軒先を振り返る。
そこにしゃがみこみ、小さな箸置きを色違いに並べて遊ぶ白い影が―――ふっと浮かんだ。
―――――いらない
「……っ!」
ああ。
ああそうか、アカギ…おまえは。
白い影はゆっくりこっちを見て、消えた。
少し笑っていたかもしれない。
…毎日ではなかった。
時折ふっと来なくなることもあったし、
来たと思ったらすぐに出て行くことだってあった。
気紛れな野良猫のようにムラのある来訪だった。
それでも俺の部屋に自然にあがりこんできた。
一緒に飯を食った。
銭湯で、風呂上りに牛乳を飲んだ。
くたびれた煎餅布団を取り合って、結局は一緒に丸くなって眠った。
それなのに、なんにも残っていない。
アカギの物と呼べるものは一切―――残っていない。
その事実に今更ながらに気付いて、足元が大きく揺れた。
そこに在ったという痕跡を、欠片ほども残さずに―――
それは普段から意識していたからだ。
自分の匂いを残さずに、必ずいつかは去ろうと。
あの時の、無表情に俺を見るアカギの瞳を思い出す。
『いらない』
―――茶碗も、箸も、コップも、布団も、タオルも―――
『俺のはいらない』
『わざわざ買うこたないよ、南郷さん』
ああそうか。
俺は籠の中の箸置きをひとつ握り、のろのろと軒先に出た。
あの日アカギがしゃがみこんでいた場所に、同じようにしゃがむ。
―――心配、することはないんだな。
おまえは自分の意思でここを出ただけなんだな。
誰かに連れ去られたとか、何かに巻き込まれたとか、そんなんじゃないんだな。
そうか、それならいい。
そうか。そうか…
手の中の欠けた箸置きが、チリ、と小さく軋んだ。
暗い軒先で、あれこれと物色するふりをして顔をふせた。
店の奥から店主が怪訝そうな顔でこっちを伺っているが、少しくらい変に思われたってかまわない。
…大の男が鼻を垂らして泣いてるところを見られるよりはずっと、ずっとマシだ。なあアカギ。
俺は、そこから立ち上がることも離れることもできず、ただ肩を震わせる。
草陰の虫の音に混じって、白い子供の笑い声が聞こえた気がした。
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このブログ内では南郷さんがしげる(13)をこども扱いするのがデフォです。さらに、一緒に何か食べてたり食べさせてたり、食べ物に関わる話が多いかもしれません。絵も描いたりします。基本的におっさんとこどもしかいないブログです。
南郷さんはおかあさん。
しげるは、なんとなく南郷さんにだけはこども扱いされたくないこども。
傾向は、思春期しげる(13)→南郷さん。
たぶん恋愛未満のプラトニックです。
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